なぜ、私たちは「何者かにならなければ」と焦ってしまうのか

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「なにかにならなきゃ。」

朝起きて、通勤電車に揺られながら、ふとそんな言葉が浮かぶ。
夜、スマホの画面を眺めていると、誰かの成功の投稿に胸がざわつく。
私たちは、気づかぬうちに「何者かになること」に、人生の価値を委ねてしまっている。

「夢を持て」「目標を持て」「自分を高めろ」。
そんな言葉が、毎日のように飛び込んでくる。
SNSでは、知らない誰かのキラキラした生活が次々と流れてくる。
充実した日々、手にした成功、羨ましいほどの人脈や実績……
それを見て、思ってしまう。

「何者でもない自分は、価値がないのではないか」と。

私も、そうだった。
若い頃からずっと、何かにならなきゃと思っていた。
人から認められる自分、評価される自分、誇れる肩書きや数字を手に入れることが「正解」だと信じていた。
でも現実は、そう簡単にはいかなかった。

私は、これまでに3度のリストラを経験している。

20代後半、最初のリストラは、突然だった。
業績不振で部署ごと消滅。
明日から来なくていい──そう言われたあの日、自分の存在そのものが否定された気がした。

「頑張っていれば報われる」
「真面目に働いていれば大丈夫」
そんな考えは、一瞬で崩れ去った。
努力が報われるとは限らない、という現実。
何もかもが不確かで、怖くなった。

2度目も、3度目も、予想できなかった別れだった。
そのたびに、心はすり減っていった。
自分に価値があるのか分からなくなった。

そして、私は気づいた。

私は、「他人からの評価」で自分の存在を決めていたのだと。

役職、売上、成果、上司の言葉。
それがなければ、自分には何もないと、どこかで思い込んでいた。

でも、それらがすべて失われたとき、不思議と少しだけ、軽くなった。
虚しさの奥に、「それでも私は生きている」という確かな感覚があった。

人は、何かを成し遂げなければ生きる価値がないのだろうか?
他人に評価されないと、意味がないのだろうか?

違う。

何者かにならなくてもいい。
むしろ、「あなたとして生きる」ことが、すでにかけがえのない営みだ。

呼吸している。
今日という日を迎えて、食べて、動いて、考えて、誰かと話している。
それだけで、誰かにとっては、希望になっていることもある。
それだけで、もう「なにか」になっているんだ。

「結果が出ていない」
「形になっていない」
「数字が伸びない」

そんなことで、自分の価値をはかろうとしなくていい。

誰かの目に映る自分を整えるより、
自分が自分をどう受け止めるかの方が、ずっと大切だ。

焦らなくていい。
比べなくていい。
誰とも競わなくていい。

あなたの今日の一歩、あなたの今日の呼吸、あなたが今日選んだ些細な決断。
それは確実に、「あなたの人生」をかたちづくっている。

「何者でもない自分」が許せなかった日々を越えて、
今、私はこう思っている。

何者かになろうとしなくていい。
あなたとして生きている、それだけで、もう価値がある。

それが、今日の一読。
もし、あなたの心が少しでもやわらいだのなら、それだけで私は嬉しい。

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