道ばたに、そっと広がっている緑の絨毯。
多くの人は足早に通り過ぎ、存在にさえ気づかない。
でも、私はこの植物がずっと気になっていた。
名前は「コニシキソウ」。
赤く染まった茎、小さくて丸い葉、よく見ると花まで咲いている。
その姿は地味かもしれないけれど、私はこの草がとても好きだ。
■ 「美しい」と思った瞬間
ある日、写真を撮った。
濡れた葉の先に光が反射して、まるで宝石のように見えた。
そのとき思った。
**「どうして今まで、こんなにも美しいものを“雑草”と呼んでいたのだろう」**と。
雑草という言葉には、どこか見下した響きがある。
でも実際には、たくさんの命がそこに息づいている。
誰にも見られなくても、誰にも褒められなくても、
そこにちゃんと「生きている植物」があるのだ。
■ 「育てたい」と思えるほど惹かれている
私はこのコニシキソウを、育ててみたいと思っている。
庭の片隅にでも、鉢にでも。
自分の手で、この小さな世界を守ってあげたい。
おそらく、こういう想いを抱く人は少ないかもしれない。
「草むしり」で抜かれてしまう存在に、ここまで惹かれるなんて──
でもそれが、私にとっては癒しであり、喜びなのだ。
■ 誰にも気づかれなくても、生きる意味はある
この植物を見ていて、ふと自分自身のことを考えた。
SNSの中で映えることもなく、誰かに注目されるわけでもない。
でも、だからこそ「自分らしさ」を保っていられる。
華やかじゃない。目立ちもしない。
けれど、確かにそこに在り、静かに強く生きている。
コニシキソウの姿は、自分の生き方そのものだった。
■ すべての命に「意味」があるということ
自然の中にある命に、意味のないものなんて一つもない。
目立たなくても、誰かの癒しになっている。
雑草と呼ばれる草にさえ、心を動かされる人がいる。
それだけで、その存在には大きな意味があると思う。
■ まとめ:「雑草」にこそ、心を動かされることがある
私はこれからも、この草を見つけたら立ち止まってしまうだろう。
そして写真を撮り、育て方を調べ、愛でる。
それが「変わっている」と言われても、私はそれでいいと思っている。
美しさは、見る人の心に宿る。
私にとっての「美」は、こんなところにこそあるのだから。
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